柏倉喜作家の人形について

 

 柏倉喜作家には現在、屏風や雛道具を含む人形類が24箱、飾り棚が5組残っています。喜作家の人形の特色は、そのほとんどが第4代当主の柏倉雪章(明治11~大正14年、本名:喜十郎)が自ら手作りしたものであることです。

 

その人形の種類は主に ① 押し絵人形 ② 衣装人形の2種類ですが、その中間ともいえる ③ 表面は立体的な作りで背面は平面的で意匠していない人形もあります。また、人形が表現するジャンルは雛人形はじめ、六歌仙、歌舞伎関係、故事にならったもの、武者人形、日清戦争の時代を表したものなど多岐にわたります。

 

調査のため蔵の外に出した様子 2018年11月
調査のため蔵の外に出した様子 2018年11月
中山町教育委員会による目録取り 2018年12月
中山町教育委員会による目録取り 2018年12月

解体された主屋に飾られた様子 1997年4月3日  /  当時の写真(中山町教育委員会提供)を合成したもの
解体された主屋に飾られた様子 1997年4月3日  /  当時の写真(中山町教育委員会提供)を合成したもの

柏倉 雪章と人形

人形を公開していた当時の解説文には、「雪章の姉が、その頃はやり出していた押し絵を作るのに、人形の顔等を描いてやっておりましたが、姉が早世したことから、自分で製作するようになりました。」とあります。

 

雪章と人形との出会いは、姉きよの影響だったようです。今回展示する六歌仙の押し絵人形のうち五体には姉きよの名が、残り一体には喜十郎と記されています。また、それらには明治27年5月と書かれていますので、雪章(喜十郎)が16歳頃に早世した姉が製作した人形を引き継いだことになります。

 

そのほかの押し絵人形には製作時期の記載や作者名が書かれていませんが、それらを収納するために誂えた「押絵箱」には明治28年7月吉日の書き入れがあります。このことから、雪章が16歳頃から集中的に押し絵人形の製作にあたったのではないかと想像しています。その後、押し絵と衣装人形の中間のような奥行きのある人形「天之岩戸」が明治29年に製作されていますが、これ以降、人形の箱書きに明治時代のものは見当たりません。

 

再び人形の箱書きに登場するのは大正4年、雪章37歳のことです。この時期からは継続的に衣装人形を製作し、47歳で亡くなる前年まで続きます。大正4年、37歳以降の人形製作では、これまでの押し絵人形ではなく本格的な衣装人形に取り組みます。人形の下絵と思われる墨絵も残っています。

大正9年には「大内裏 殿」「大内裏 姫」の完成に合わせて、蒔絵の「雛道具一揃」を購入しています。さらに大正13年に弟子である石山太柏による六曲一双の「金地柳桜之図御雛屏風」を揃えました。